シンセサイザーによるリードプレイはギターソロを弾くかのような表現方法でスタイルを確立していく。
biography
1948年4月17日生まれでチェコ・スロバキアのプラハに生まれる。
母親はチェコでは有名な歌手で4歳よりピアノを習い始める。
プラハ音楽アカデミーに進学し、ハーモニー、対立法作曲などを学ぶ。また高校時代より、ジャズのピアノトリオを結成し、東ヨーロッパで演奏、レコーディングも経験している。
1968年には旧ソ連によるプラハ侵攻した事によりアメリカへ渡りバークリー音楽院に留学する。
同時にセッションの仕事を開始し、サラ・ボーンの仕事でジャズ界で知名度を上げた。
マハビシュヌ・オーケストラへ加入
1970年にはジョン・マクラフリン率いるマハビシュヌ・オーケストラに参加する。
ジャズでありながら、ロックと融合したスタイルで、
「内に秘めた炎」( 1971年)、
「火の鳥」(1972年)、
「虚無からの飛翔(ライブ)」 (1973年)
と立て続けにヒット作を送り出し、530回ものコンサートを行う。
既にこのころ理想の音を探求する為、話題のモーグ・シンセサイザーも導入している。
セッション時期
1973年マハビシュヌ・オーケストラ脱退後セッション活動を始める。
ビリー・コブハムのリーダー作「スペクトラム」( 1973年)
にはギターのようなリードプレイを確立している。
またソロとして「万物の創造」( 1975年)でソロキャリアをスタートする。
ジェフベックの作品
「ワイヤード」 (1976年)、
「ライブワイヤー」 (1977年)
アルディメオラの作品
「エレガントジプシー」(1977年)などに参加。
ジャズ、ロック、フュージョンと多彩な才能を発揮する。
その後もニール・ショーン、スタンリー・クラーク、カルロス・サンタナ、エルビン・ジョーンズなどのアルバムに参加。
1983年にはロニー・レーンのARMSコンサートに参加し、ロック、ポップス分野でも広く活躍の場を広げている。
マイアミ・バイス
さらに知名度を上げたのは、1984年アメリカのテレビドラマ、「マイアミ・バイス」の音楽を担当し、
サウンドトラックからシングルカットされた「マイアミ・バイスのテーマ」が爆発的なヒットで、
インストゥルメンタル曲では異例のビルボード・チャート1位を獲得。後にグラミー賞を受賞している。
またジェフベックの「フラッシュ」、
ミックジャガーの「シーズ・ザ・ボス」などヒット作にも参加したことからトップアーティストとして広く知られるようになる。
その後しばらくサウンドトラックの仕事を中心に活動し、中でも1993年のビデオ作品のサウンドトラック、
「ビヨンド・ザ・マインズ・アイ」が大ヒットを収める。
チェコ共和国の東ヨーロッパ初の商業テレビ放送網「テレビ・ノヴァ」の仕事を始めているといったニュース、
マイアミ・バイスの再上映やDVDの人気ぶり、
マハビシュヌ・オーケストラや過去のアルバムが再リリースされるなど話題になる。
その後もジェフベックの作品に頻繁に参加し、ライブにも参加している。
使用機材
ヤン・ハマーのルーツはクラシックですが、プレイスタイルはジャズがベースです。
ジャズに限らず様々なジャンルに柔軟に対応でき、エレクトリックピアノでのリズム感は圧巻で、またモーグ・シンセサイザー使用に関しては、キース・エマーソン同様、いち早く導入してリードプレイスタイルを確立している。
ディストーションのようなサウンドでピッチベンド(ギターのチョーキングのような効果)が特徴で、ギターの音使いを研究しシンセサイザーによる再現など、実験的な事も行なっている。
70〜80年代ではシンセサイザーはモーグとオーバーハイム、ミニモーグが主体で、
ステージではショルダーキーボード(Probe)を使用。
これはロジャーパウエルが開発に携わったキーボードで、これを更にヤン・ハマーの意見を取り入れた特注品のようです。
あとはヤマハのKX-5も使用。
日本では小室哲哉や浅倉大輔がステージパフォーマンスで使用していましたが、やはりヤン・ハマーの影響があるのでしょう。
エレクトリックピアノはヤマハCP-70を使用しているのが確認されています。
それ以降もKORGのトライトン、Z1、トリニティーなども使用しているようです。
またドラムの演奏も作品として残っており、ジェフベックのワイヤードで「蒼き風」という曲で聴くことができ、飛び抜けたリズム感を感じる事ができます。
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